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福岡高等裁判所 昭和31年(う)1642号 判決 1957年2月26日

控訴人 原審検察官

被告人 原崎邦夫

検察官 西田隆

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金五千円に処する。

もし、右罰金を完納することができないときは、金二百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。但し、この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

原審並びに当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、原審検察官笹原元提出の控訴趣意書記載のとおりであり、弁護人浦田仙造の答弁は同弁護人提出の答弁書記載のとおりである。

一、本件公訴事実の要旨は、「被告人は、医師であつて佐賀県東松浦郡鬼塚村千々賀に原崎病院を開設して医業に従事していたものであるが、昭和二五年七月二九日かねて脊髄カリエスのため治療に来ていた小野恵美子がぶどう糖カルシウム五本入一箱を持参してこれが注射方を依頼したので、医師たるものは、その箱の状態、注射薬入手の状況、注射液の溷濁変色の有無等詳細に調査し、万一アンプルにレツテルのないものがあるときは、検定を受けてその真偽を確かめた後注射する等事故を未然に防止すべき業務上の注射義務があるのにかかわらず、右注意義務を怠り、不注意にも右箱は相当古びており、封緘紙は破つてあつて、中のアンプル五本のうち三本はレツテルがなかつたのに恵美子に対し入手その他につき詳細な調査をせず、溷濁変色の有無を調べたのみで大事なきものと軽信して検定も受けなかつたため、レツテルのないアンプルが点眼薬カルパノールヒヨリンクロツトであつたのに気づかず、同月三一日午前一〇時頃右病院で右レツテルのないカルパノールヒヨリンクロツト三本中一本を右恵美子の左腕静脈に注射したため、因つて右注射による呼吸まひにより同一〇時一〇分頃右病院において同女を死亡するに至らしめたものである、」というのであり、また、原判決が所論のような事実を認定し、被告人に過失のない所以を説示し、結局公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するものとして無罪の言渡をしたことは、いずれも所論のとおりである。

二、原判決挙示の(一)ないし(六)の証拠並びに当審において取り調べた証拠を綜合すれば、原判決も認定するように、本件公訴事実のうち、

(い)、被告人は医師であつて、昭和二四年八月以来佐賀県東松浦郡鬼塚村千々賀において病院を営み医業に従事していたものであるが、昭和二五年七月二九日かねて被告人のもとに通院し結核性脊髄カリエスの治療を受けていた小野恵美子が、注射剤ぶどう糖カルシウムと思料されるアンプル一本二〇cc入のもの五本在中の紙函一個を同病院診療室に持参して被告人に示し、これが注射方を求めたこと、

(ろ)、右の紙函の状況は、その外表に第一製薬株式会社製ぶどう糖カルシウムの標示があつたが、うすい埃の附着が見られる程度に相当古びており、封緘紙もすでに破つて封が切つてあつたこと、

(は)、紙函在中のアンプル五本のうち二本には、紙函外表の標示と一致するぶどう糖カルシウムのレツテルが貼付してあつたが残り三本のアンプルには全くレツテルがなく、剥げ落ちたレツテルも見当らず、その入手先を尋ねると恵美子は、「自宅で夫嘉一から受取つて来た、夫は、『これは、お前の病気に効く注射薬であるから注射してもらえ。』といつて渡してくれた。」旨を答えたこと、

(に)、被告人においてアンプルを振蕩透視して点検したところ、アンプル五本の注射液には、いずれも溷濁、変色、沈澱物等がなく、すべて無色透明であり、アンプルの形状等もほぼ同一で別段異常の認むべきものがなかつたこと、

(ほ)、被告人はレツテルのないアンプルの薬液も、レツテルのある薬液同様ぶどう糖カルシウムであると確信し、恵美子の依頼に応じて注射方を承諾し、同月三一日午前一〇時頃前記病院診療室において、レツテルのないアンプル三本のうちの一本の薬液を恵美子の右腕正中静脈に注射したところ、はからずもそれは点眼用の劇薬カルピノール一号であつたため、約二ccの注射により即座に反応を生じ、被告人においてただちに注射の続行を中止し、応急措置を講じたがついにおよばず約一〇分にして呼吸まひにより、恵美子をして同所において死亡するに至らしめたこと、

等の事実を認定することができる。

三、およそ医師が患者に静脈注射を施こす場合、もし薬液の品質種類の判別を誤まるときは、人の生命身体に不測の障害を招来する危険のあることは言をまたないところであるから、右のような注射を施こすにあたつては、薬液の判別にいささかも過誤のないことを期し、もしいやしくもこれが明白的確な判別を下し難い事情の存する場合には、すべからく注射を避止し、もつて危険の発生を未然に防止すべきは、医師の業務上当然の注意義務というべく、アンプルに貼付される正規のレツテルは、通常在中薬液の品質種類を証明するものであるから、特段の理由がない限り、レツテルの確認は薬液の検定による確認と同一視して然るべきであるが、もしアンプルにレツテルの貼付がない場合には、薬液の検定もしくはこれと同一視しうべき格別の事情が存しない以上、薬液の品質種類につき明白的確な認識をうるに由なく、これが判別を誤まるおそれなしとしないのであるから、医師としては、かかる場合すべからく注射を避止すべきである。

四、本件についてこれを見るに、鑑定人医師中野既明の作成にかかる鑑定書、厚生省薬務局監視課長の通牒写、佐賀県衛生部の通牒写その他の証拠によれば、小野恵美子に注射された薬液は、カルバミノイルヒヨリンクロリツトの製剤たる劇薬カルピノール一号で、点眼用として二〇ccアンプル入で市販されているものであるところ、二〇ccの注射剤と同様の透明なアンプルに容れてあつて、カルシウム注射剤と紛らわしく、これが誤用による死亡事故が佐賀県内において昭和二五年中本件以前に二件発生していることが明かである。そして、検察官の面前における被告人の供述調書、小野恵美子に対するカルテの訳文、当審証人波多サダ子、同小野スエ子の各供述によれば、小野恵美子は被告人の経営にかかる前記病院から徒歩約一〇分の近距離に住む農家の主婦で正直者であり、昭和二四年八月以来被告人の診療を受け、被告人は、恵美子の実家及び婚家の家人に診療を行つたこともあつて、かねて、恵美子を信頼していた事実、並びに恵美子は、本件の二週間ほど前、昭和二五年七月一四日、開封された紙函に入れてあるミノフアーゲンA二cc入九本の注射剤を持参し、被告人に対し本件同様夫にすすめられたからとて注射方を依頼したので、被告人は同日から同月二五日までの間に右九本全部の注射を施したが何らの異常も生じなかつた事実を認めるに足り、被告人は、これらの事情と、本件薬液を点検してその無色透明で別段異常のないことを確かめることができたこと、並びにそのうち二本にはぶどう糖カルシウムのレツテルが貼つてあり、その紙函にもぶどう糖カルシウムの標示が施こされていたこと等のため、本件薬液にレツテルが貼つてない事実は知つていたが、それが恵美子のことばのとおり、ぶどう糖カルシウムであると信じ、同女の依頼に応じて注射を施したものであつて、被告人は、本件所為につき過失の責を負うべき限りでない旨を主張する。

五、しかし、右のミノフアーゲン注射剤には、すべてレツテルが貼つてあつたのであり、アンプルにレツテルの貼つてない注射液を被告人が施用した事例は、本件以外には絶えてなかつたことは、被告人も原審公判において自認しているところであつて、右のミノフアーゲンを注射して恵美子の身体に異常が生じなかつたという事実は、レツテルの貼つてない注射液の施用による危険の不予見を正当化する事由とはなし難い。

また、ぶどう糖カルシウムもカルピノール一号も、共に無色透明の薬液であるから、振蕩透視の結果無色透明であることを確認しただけでは、薬液の品質種類の判別に欠くるところがなかつたということはできない。

被告人主張の前記事情は、患者恵美子の言に格別の疑問を抱くに至らなかつた事由としては、これを肯認するに足りるが、患者恵美子は薬学の知識に乏しい片田舎の農家の一主婦であつてかかる患者の言は、レツテルのない薬液の品質種類を判別する根拠とするには、十分でない。

本件のような場合、恵美子の持参した薬液のうちに、カルピノール一号のような劇薬が混在していることを予見することは容易でなかつたとしても、本件薬液には、そのアンプルに現にレツテルの貼付がなく、その品質種類の判別につき、拠るべき明白的確な資料を欠如しているのであるから、良識をそなえた通常一般の医師である限り、品質種類の確実でない薬液の注射による不慮の障害の可能性を蓋然的に予見することの必ずしも不能でないことは、健全な常識に照らして明白であるというべく、したがつて、前記説示のとおり、その性能の確認されないかかる薬液の注射は、たとえ、患者の依頼があつても、医師としてはこれを拒絶すべき業務上の注意義務があると解するのが相当である。

被告人の本件所為は、レツテルのない薬液につき、検定もしくは検定と同一視しうべき格別の事情があつたものとは認められないのであるから、すべからく注射を拒絶すべきであつたのにかかわらず、主として恵美子の言を信頼し、薬液の無色透明、アンプルの形状等を確かめたのみで、たやすくぶどう糖カルシウムであると軽信し、注射を施こした点において過失の責を免かれないといわざるをえない。原判決がその摘示するような事実を認定しながら、被告人に過失なしとしたのは、医師の業務上の注意義務に関する法則を誤まり、ひいて事実を誤認したものというのほかなく、論旨は結局理由があり、原判決は、破棄を免かれない。

よつて、刑訴第三九七条により原判決を破棄し、刑訴第四〇〇条但書に従い本件について更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は医師であつて、昭和二四年八月以来佐賀県東松浦郡鬼塚村千々賀において病院を営み医業に従事していたものであるが、昭和二五年七月二九日かねて被告人のもとに通院し結核性脊髄カリエスの治療を受けていた小野恵美子が、注射剤ぶどう糖カルシウムと思料されるアンプル一本二〇cc入のもの五本在中の紙函一個を同病院診療室に持参しこれが注射方を求めたので、被告人においてこれを受取り点検したところ、右の紙函には、第一製薬株式会社ぶどう糖カルシウムの標示があつたがうすい埃が附着し、同函は相当古びており、封緘紙もすでに破つて封が切つてあり、在中のアンプル五本のうち二本にはぶどう糖カルシウムのレツテルが貼付してあつたが、残り三本にはレツテルがなく、剥げ落ちたレツテルも見当らず、その入手先につき恵美子は、夫嘉一のすすめにより自宅で夫より受取つた旨を申出たのであつた。およそ医師が患者に静脈注射を施こす場合、もし薬液の品質種類の判別を誤まるときは、人の生命身体に不測の障害を招来する危険のあることは、言をまたないところであるから、右のような注射を施こすにあたつては、薬液の判別にいささかも過誤のないことを期し、もしいやしくもこれが明白的確な判別を下し難い事情の存する場合には、すべからく注射を避止し、もつて危険の発生を未然に防止すべき業務上当然の注意義務があるにかかわらず、被告人は、これが注意義務を怠り、アンプル五本の注射液はいずれも無色透明で、溷濁、変色、沈澱物の存しないことを確かめたのみで、主として恵美子の言を信頼し、不注意にもレツテルのない薬液が劇薬カルピノール一号であることに気づかず、レツテルのある薬液同様ぶどう糖カルシウムであると軽信し、恵美子の依頼に応じ、同月三一日午前一〇時頃前記診療室において同薬液を恵美子の右腕静脈に注射したため、約一〇分にして呼吸まひにより恵美子を同所において死亡するに至らしめたものである。

(証拠の標目)

一、原審公判における被告人の供述

一、電話聴取書(変死届)

一、波多サダ子の検察官に対する供述調書

一、医師中野既明の鑑定書

一、厚生省薬務局監視課長の通牒写、佐賀県衛生部の通牒写

一、原審並びに当審における証人波多サダ子、鑑定人久保田環、同佐藤一江の各供述

一、被告人の司法警察員及検察官に対する各供述

(法令の適用)

刑法第二一一条前段(罰金刑選択)、罰金等臨時措置法第二条第三条、刑法第一八条、刑法第二五条第一項、刑訴第一八一条第一項

以上の理由により主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 下川久市 裁判官 柳原幸雄 裁判官 岡林次郎)

原審検察官の控訴趣意

原判決は事実誤認の違法がある。

一、本件公訴事実の要旨は、被告人は医師であるところ、予て脊髄カリエスのため被告人の治療を受けていた小野恵美子が昭和二十五年七月二十九日葡萄糖カルシユームと思われるアンプル五本入りの一箱を持参して之が注射方を被告人に依頼したので、斯かる場合その箱の状態、注射液の入手状況、混濁変色の有無等仔細に調査し、アンプルにレツテルのないものがあるときは検定を受くる等の方法を講じてその真偽を確かめた後注射し、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務あるに拘らず、当時右箱が相当に古びており、封緘紙も破れ、在中のアンプル五本中三本はレツテルが無かつたのに、右注射液の混濁変色の有無を調べたのみで不注意にもその入手経路その他につき詳細なる調査をなさず又検定も受けなかつたため、右のレツテルのないアンプルが実は点眼薬カルパノールヒヨリンクロツトであつたのに気附かず、同月三十一日その一本を葡萄糖カルシユームと誤信し右恵美子の左腕静脈に注射したためその結果同女をして呼吸麻痺に因り間もなく死亡するに至らしめたものであると謂うにある。

二、之に対し原審は犯罪の証明なしとして無罪の言渡をなしたものであるが、その理由は判決の右公訴事実中、被告人が医師であつて、佐賀県東松浦郡鬼塚村千々賀に原崎病院を開設して医業に従事していたところ、昭和二十五年七月二十九日予てから脊髄カリエスのため治療に来ていた小野恵美子が葡萄糖カルシユウム注射液五本入一箱を右医院に持参してこれが注射方を依頼したこと、右注射液入の紙箱が多少古びていたこと、右注射液五本の中三本はレツテルが貼つてなかつたこと、右レツテルの貼つてない注射液を被告人が右医院で同月三十一日午前十時頃小野恵美子に注射したところ同人が呼吸麻ひにより同所で約十分位後に死亡したこと、右レツテルのない注射液はカルパノールヒヨリンクロツトであり、被告人は右事実を注射施行前に知らなかつたことを認めることができる。そこで被告人の右所為が注意義務を欠いていたかどうかを按ずると、前掲各証拠によれば被告人が前記葡萄糖カルシウム液を注射する為之を小野恵美子より受取つたとき、入手先としてその夫より恵美子が受領して来たものである由を聞いたこと、右注射施行前二十日位前より一週間位前迄開封した箱に入つた注射液ヤトコニンを恵美子が持参して来て之を注射してやり無事であつたこと、小野恵美子は本件事故発生当時より二年位前から被告人より治療を受けていたこと、本件の注射をした際は注射液に混濁、変色、沈澱物の有無等を被告人が調べ葡萄糖カルシユウム液と同様無色透明であつたことを被告人に於て確認したことを認めることができる。ところで医師が施療中の患者が持参した注射液を注射してやることは禁止されているものでないことは鑑定人久保田環、同佐藤一江(第一回)の各供述及び佐藤一江の副検事に対する供述調書の記載により明かである。然し乍ら同証拠を綜合して考察しても右の場合注射液を入れたアンプルにレツテルがないとしても常にその内容物を検定した後でなければ施用してはならないとはにわかに断じ難い。その患者が従来より施療中のものであり、患者の人物、家庭等が信用できるものであれば注射液の入手状況を調査しアンプル中の注射液の混濁、変色、沈澱物の有無を確め、製造会社及注射液の内容について標紙その他の状況により信用できる状態であれば必ずしもその中一個又は数個のアンプルにレツテルがないことのみの理由で直ちに之を施用することは医師の過失なりと認め難いと言わざるを得ない。結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するから刑事訴訟法第三百三十六条を適用して無罪の宣告をすべきである。と謂うにある。

三、仍て原判決の当否を審究するに、(一)判決認定の事実は別に之を争わない。(二)右判決認定事実の外、1、カルパノールのアンプルの底部の凹みは葡萄糖カルシユームのアンプルの底部の凹みに比し稍深いものであることが一見して明らかであること。(証拠物の存在)2、波多サダ子(被告人雇傭の看護婦)の検察官に対する供述調書中に「私は箱も古いし封緘紙もないし又レツテルのないのが三本もあるのでどうしてこんな古いものを持つて来たのか一寸怪しいと思つた、それからその時注射したカルパノールのアンプルの底の凹みは葡萄糖カルシユームのアンプルの底の凹みより多く凹んでおるようであつたので混濁の状態丈を見ないで、古い箱ではあるし、レツテルもないので、アンプルの型状等につき注意して調査すればレツテルのあるのとないのがアンプルが異つておるのを発見し得たのでないかと思う」との記載があること。(記録第一九、二二、二三丁同人の検察官調書参照)3、証人久保田環(医師)は第二回公判期日において検察官の「アンプルにレツテルの貼つてないものがあれば其のアンプルの型にも注意するのか」との問に対し「それは注意する、それで型丈を頼りにする訳には行かないがアンプルにレツテルのない場合矢張型にも注意して見る。」と証言し(記録第六〇丁裏より第六一丁第二回公判調書参照)裁判官の問に対し「例えば普通の人は封緘のない酒瓶に対しては中味の酒は薄められて居ないかと思うであろうが医師も封を切つた注射薬に対しては中のアンプルが真物であるか古いものが入つて居ないかと疑を持つて特に其の点を調べる。」(記録第五二丁第二回公判調書参照)「葡萄糖注射液は他の注射液に比較して副作用が少いので気軽な気持で打てるのであるが然し戦後は製品が良くないのが多いので内容の液に充分注意している」と証言している(記録五三丁第二回公判調書参照)こと。4、証人佐藤一江(唐津保健所長)は第二回公判期日において検察官の「注射薬のアンプルには各一本毎にレツテルをはつておかねばならないか」との問に対し「どのアンプルにでも全部レツテルがはられている」と証言し(記録第六五丁参照)、次で「注射薬の箱の中のアンプルが型が異ることがあるか」との問に対し「一つの函の中のアンプルの型は皆同じである。」(記録六五丁裏面参照)更に「患者が持つて来た注射薬のアンプルにレツテルがはつてない場合医師はどんな注意をしなければならないか」との問に対し「注射薬の箱の封緘が破れておると中のアンプルが函の包装と一致するかどうか、混濁変質がないかどうかを調べねばならぬ、そしてレツテルがはつてないのは不審に思つて調べて毒物でなしに打つてよいものであれば打つてやる。それで以前の様に水害などあつてレツテルが剥げたのは検定を受けて内容がなんであるかを確めてから打つべきである。」「危険なものでないかという疑があればどうするか。」との問に対し「其の疑があれば検定すべきである。」と証言している(記録第六六丁同人の第二回公判調書参照)こと。5、右佐藤の検察官に対する供述調書中「患者が持つて来た注射薬中函の中にレツテルのあるのとないのとが混同して入つておる場合は混濁、沈澱物、変色の有無、アンプルや箱によつて放置の有無等調査して衛生試験所の検定を受けて其の真偽を確かめてから注射すべき注意義務がある。」との記載があること。(記録第一三〇丁同人の検察官調書参照)6、被告人の検察官に対する供述調書中「内三本はレツテルが水か何かではげた様なあとがあつたので私も不審に思つた。」との記載があること。(これによるも被告人自身右注射薬に不審を抱いていたこと明らかである)(記録第一七九丁被告人の検察官調書参照)7、本件以前同年二月二十七日頃佐賀県嬉野病院において五月十日頃同県小城炭礦病院において、何れもカルパノールの誤注射により患者を死に至らしめた事件が発生、西日本新聞の二月二十八日附及五月十一日附の佐賀県版に掲載されており被告人もこの事実を知つていたこと(右両新聞紙を撮影した写真の存在及び被告人の公判廷における供述)等の証拠があり原判決の認定した事実と之等の証拠によつて認められる事実を綜合すれば本件公訴事実は十分に之を認めることが出来るのである。

凡そ注射は極めて危険なものであつて一歩をあやまれば直ちに人の生命を奪うものであることは本件自体が最も雄弁に之を物語つて居るものであり、かかる危険なることをなすときの注意義務は最も高度のものでなければならないものであることは法の精神に鑑み言うをまたないところである、従て本件の如くレツテルのはげたアンプルの如きは絶対に使用してはならない義務があり、従て之に反して注射した被告人は当然過失の責ありと言うべく、仮に一歩を譲りレツテルのないものといえども絶対に使用できないものでなく極めて信用すべき状況の下に於ては使用して差支えないとしても前記証拠によつて認定せられる如く患者から持参したもので患者が信用すべきところから入手したものか確認できず薬品も古びて居り封緘紙は破れて居り且アンプルが葡萄糖と違つて居る等幾多疑うべき状況の下にある場合に於ては医師としては当然かかるものは使用すべきではなく検定その他の方法をもつて安全なることを確認して後使用すべき注意義務あるものと言わなければならない。然るに之を確認せずして本件の如き疑わしき薬品を使用した被告人は当然過失の責を負うべきである。

四、原判決は前記の如く「注射液を入れたアンプルにレツテルがないとしても常にその内容物を検定した後でなければ施用してはならない」とはそそかに断じ難い。患者の人物家庭等が信用できるものであれば云々と判示しておるが、被害者恵美子はいわゆる田舎の婦女であつて医学的知識に乏しいことは同女が被告人方に治療を受けておる間においても相知方面に神信心に行つて居た事実(証人波多サダ子の第四回公判期日における証言、第八丁参照)によるも明かであつて斯の如き婦女が持つて来たもので何等信用すべき状況もなかつた前述の如き注射薬を信用し得るものと判示したことは証拠の価値判断をあやまつたものと言うの外はない。更に原判決は「製造会社及び注射液の内容について標紙その他の状況により信用出来る状態であれば云々」と判示しているが、本件が斯る状態であつたことを認め得る証拠は存せず、右は全く証拠によらず仮定的見解を示したものと謂うべきである。

以上の如く本件被告人が医師として当然なすべき注意義務を懈怠したため致死の結果を招来したものであることの証明は前記諸点により十分であるにかかわらず其の証明なしとして無罪の判決をなしたことは確証を看過し延いて事実の誤認に陥つたものであつて当然破棄を免れない。

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